ラリーって素晴らしい。
でも人生ってもっと素晴らしい
Rally Japan 2008 参戦記
                     河野浩司(山口県)
Photo by T.Imamura
 2008年10月、20年以上夢にまでみたWRCへの参戦を果たすことができた。
私のRally Japan 2008への参戦記を記す時、20年前の出来事から、そして私の兄とその家族のことから書き留めなければならない。

河野知二という男の存在
 2006年4月6日、兄である河野知二が永眠した。
富士重工業でモータースポーツを担当し、FIAのマニュファクチャラー委員を務め、根っからラリーを愛していた。
兄がラリーに魅せられ、その世界にのめり込んでいったのは、20年以上前のことだった。
その頃、まだ学生であった彼は、ラリーの練習中にドライバーとしての師と仰ぐ先輩が川に転落し死亡してしまってから、更にその意志が強くなっていったのである。

 その事故をマスコミは大きく取り上げ、彼がその社会的な責任を強く感じたことも、その後の兄の思考の中に大きな影響を与えていた。 その事故の時にナビ席に同乗していたのが私だった。
兄は、『車両を製造する自動車メーカーに入社して、もっとラリーの根幹に関わり、その本質を社会に広めたい』と願う一心で富士重工業の門を叩いた。
それから約20年間 彼はラリーを生活の軸として、いや、全てをラリーの為に生きてきたといっても過言ではないだろう。

 2004年春、彼はスキルス(進行性)胃癌に侵されていることを医者から告げられた。そして、兄と家族はそのあまりにも過酷な試練の中で生き抜く手段を模索していた。
そんな中、兄自身が20年前に想い描いた夢の実現のため、長年関わってきたラリー界への恩返しの為、そして、兄の家族への最大の思い出作りの為に、翌年開催された『ラリーオーストラリア2005』への参戦を決意した。
そして、2005年11月。ラリーオーストラリアの全行程、約1300キロを家族と共に完走した兄は空を仰いで叫んだ。
『ラリーって本当に素晴らしい。でも人生ってもっと素晴らしい。』と・・・。



私の挑戦の始まり

 2007年1月群馬県で開催されるということを友人の舩木氏から聞いた。舩木氏は、2005年オーストラリアラリーの時に兄へ競技車両を貸してくれた人物でもある。

『では、ちょっと遊びに行きましょう』ということが、全てのことの始まりであった。
舩木氏曰く『せっかくこちらに来るのであれば、お兄さんが乗ったGC8があるから浩司さん、走ってみれば?』ということであった。
私自身20歳から、7年間余り一生懸命になって走っていたものである。
しかし、既に43歳。実に16年間ものブランクがあったが、もう一度兄と一緒に走ることが出来ればとの願いからB級ライセンスを兄が亡くなる年に再取得していた。
舩木氏のその言葉に私は大きく胸を躍らせた。
『もう一度走れる。しかも、兄の乗った車で。』

 2007年2月3日(土)私は16年振りに兄がオーストラリアで走った競技車両と共にラリーのスタートランプに上がった。
結果は軽いクラッシュがあったもののとりあえず完走することができた。
『浩司さん、このGC8引き取らない?』という思いもよらない言葉が、ラリーの終了後に舩木氏の口から飛び出した。私にとって心が躍るような話だった。

 2007年2月末、競技車両が、下関市の私の手元に届いた。
兄とその家族がオーストラリアで走りぬいた競技車両で、そのバケットシートには兄の温もりさえ感じるようだった。カラーリングもそのままで、ハートにクローバーとキスマークが貼り巡らされ、そしてチーム名でもあり兄の届けたかった想いを綴った
『Power of Love』のステッカーもあった。
そして、兄が病魔と闘いながら生き抜く手段を模索していた中で、立ち直るきっかけともいえる、長女が保育園で習って暗唱したという、宮沢賢治の『アメニモマケズ』の和文と英文が左右のボディに貼っている。

 兄の伝えたかった想い。『ラリーって本当に素晴らしい・・・』
私には力不足だが、出来る限りの力で伝え続けたい。
たとえ、伝わる相手がひとりでも、ふたりでも。
私の挑戦は始まったのだ。



Rally Japan 2008エントリーまでの道程

 幾つかの地方の小さなイベントに参戦する中で、沸々と私の頭の中をよぎるのは、『WRCで走ってみたい』ということであった。
若い時分、一生懸命走っていた頃には夢のまた夢のようなイベントであった。
でも、同じ世界選手権でも、F-1とは違って、国際C級ライセンスがあれば、基本的にエントリーをすることはできる。
私は、国際ライセンスの取得に向けての活動を開始した。
2007年更新時には国内A級ライセンスを取得。
そして、2007年中に地方選手権6戦での完走印を取得して2008年の更新には国際C級ライセンスを取得することができた。
私は、WRCに参戦する資格を持つことができた。
後はエントリーすること、体制を考えること。金銭的な問題をクリアすることだった。

Rally Japan 2008へのエントリー
 2008年9月、膨大な量のインフォメーションやレギュレーションに目を通し、エントリー・フォームへ書き込みを進めた。
プライベート参戦なので、公式にはチーム名は表に出ないが、チーム名は当然『Power of Love Project』とする。
同じチーム名での参戦は2005年にオーストラリアで兄と一緒に参戦した、長谷川淳一氏が同じGC8で参加。
後にエントリーリストの発表で分かったことだが、GC8での参戦は私と長谷川氏の2台だけだった。
古い競技車両での参加はやはり無理があるのだろうか。と思ってしまうが、FIAのホモロゲーションもあと2年、2010年まで延長されたとのことで、まだまだ、ニーズはあるということを証明している。

 エントリー・フォームを送り、受理されるか否か胸をドキドキさせて待ち続ける。
そして、エントリーリストの発表。私のゼッケンは96番。長谷川氏は97番ということで並んでいる。無事に受理をされ、いよいよ、本格的にWRCへの参戦が現実味を帯びてきた。



ラリースタート

 2008年10月30日(木)、いよいよセレモニアルスタート。
世界初のドーム内特設SS会場内がスタート会場となり、観衆を前にスタートをしていく。
私が夢にまでみたWRCのスタート。
周りを見渡せば、当然、世界チャンピオンも居れば、全日本ラリーで活躍している選手もいる。世界中で活躍している選手ばかりだ。

 勿論どこを見ても最新鋭のマシン。
私の心の中でどこか、『こんな古い車で参加して、場違いなのかな?』という心細い気持ちを持ちながらスタートランプへ上った。
司会からの紹介を受け、いよいよスタート。ランプを降り始めた、その時、ドームの観客席から大きな声が聞こえた。
『GC8最高!!!』『頑張れー!!!』『かっこいいぞー!!!』
スバルカラーのブルーの旗やスズキカラーの黄色の旗を力一杯に振りながら何人もの観客の人々がこちらに向かって叫んでいる。

 予想していないことに私は思わず、誰か違う人への応援かと辺りを見渡した。が、彼らは間違いなく私へ向かって叫んでくれていたのだった。
スタートして数秒間、私の目頭は熱くなっていた。
こんな古い車でも応援してくれている。本当にみんなラリーが好きなのだ。
楽しい!本当に楽しい!! 凄い!ラリーって本当に凄い!!
このスタートランプからドームを出る数十秒の間に 私の気持ちは最高潮に達していたのでした。

DAY2での出来事
 DAY1を無事に走り終え、2日目も終盤に差し掛かった夕暮れ時、ステージを走行していた私たちの目の前に火のようなものが見えた。 『車両火災だ。』私たちよりかなり前を走っていた選手の競技車両が炎上している。
しかし、その辺りには人影がない。
その時、私の頭の中では、『SS区間中のこと、競技を考えればこのまま素通りするべき』と『もし、車中にまだ選手が残っているとすれば、助けなければ』という2通りの想いが浮かんだ。
そして、もうひとつ記憶の中で2005年のオーストラリアラリーを兄が走ったとき、サービスメカニックとして、自費でわざわざ日本から駆けつけた兄の友人がいたことを思い出した。彼は数年前にニュージーランドラリーに参戦していた時に、車両にトラブルが起きた。兄に『友達だろ!』と言われて、助けられたことが忘れられなく、オーストラリアまで手伝いに来てくれたのだ。

 競技者同士であっても仲間とはそういうものだと私は解釈していた。
急いで、消火器を手にコ・ドラと共に炎上している競技車両へ近づいた。その車両からは選手は既に逃げており、大事に至ることはなかった。
当然、私たちのそのSS区間でのタイムは散々なものになったのであるが、だからといってあの時の私たちの行動に後悔はない。



サービス体制

 同じチームで走る長谷川氏と一緒にサービスを受けるのが本当は一番良いし、楽しく走れることは分かっていたが、人手の問題等々で同じサービス体制で挑むことを諦めざるを得ない状況にあった。
そこで、愛媛県の渡部洋三氏がRally Japanに参戦することから、そのチームの中で共同サービスを受けることとして参加させてもらうことになった。
初めてWRCに参戦する私には準備する事柄全てが、皆目見当がつかず、気になることを全て渡部氏へメールしながらの準備であった。
結果、サービス体制としては、渡部氏と私の車両2台に対して13名ほどのスタッフの体制で行ってもらうことになったのである。

3日間を通して渡辺洋三氏率いるサービスチームの対応も私の目を見張るものがあった。
サービスメンバーの構成は1名のマネージャと2名のシェフ、そして、1名のコーディネイター、6名のプロフェッショナルメカニックと3名の東京工科専門学校の学生ボランティアメカニックで構成されている。
みんなラリーが好きだから集っていることも事実だが、何よりも全ての事柄に気を配り、ドライバーとコ・ドライバーが走ることに集中できる為の、その体制作りに私は本質的な仕事のあり方を垣間見たように思った。

 そして13人の突貫組織の結束力の強さ。コミュニケーション能力の高さ。技術力。何が欠けてもならないものなのだろう。
そして、この13人のサービスメンバーとの連携こそが、兄が伝えたかったことのひとつにある、人と人との関わりの大切な部分でもあったのだと思う。
互いに支えあうことの素晴らしさなのだと思う。

 ラリー車がサービスエリアに進入する時のサービススタッフが競技車を誘導してくれる、その安心感。それに続く的確なメカニカル作業、ドライバー・コ・ドライバーへの配慮。そしてタイムマネジメント、食事の準備。次のステージへ向けて更にテンションが高まるドライバーの気持ちを察するかのように、賑やかに穏やかに、そして何よりも楽しく競技車両をステージへと送り出すその立ち振る舞い。
これがラリーの楽しさのひとつなのだと、胸に刻みこんだ。

DAY3でのリタイヤ
 最終日、11月2日(日)スタートして午前のサービスが終了し、いよいよ午後の中盤に差し掛かった時SS23、私のGC8は突然エンジンルームから煙を吐き始めた。
このような経験のない私には何が起こったのか、事態が呑み込めなかった。
ターボ・トラブルであることは後から分かったことである。
サービススタッフに迎えに来てもらい、応急処置をしてサービスまで戻り、遭えなく私のWRC初参戦は終焉をみたのである。

 同じサービス体制の中で走った渡部洋三氏は完走を果たし、同じチームで参戦した長谷川氏も完走を成し遂げた。
セレモニアルポディウムフィニッシュでは、傍からチームメンバーの勇姿を見たのである。
次回、また参戦出来れば、『今度こそ必ずポディウムに立つ。』そう心に誓ったのである。



Rally Japan 2008を体感して

 河野知二の遺志。それは、ラリーをもっと手軽に楽しんで欲しい。プロ野球を観戦するように多くの人々に見てもらいたい。その素晴らしさを味わって欲しい。
そして、更には、そこに見える、もっと素晴らしい人生を感じて欲しい。
という志にあった。

 ラリーはドライバーとコ・ドライバーの2人だけのスポーツではない。周りで支える、サービススタッフをはじめとする多くの関係する人々。
全てのコンペティターは戦う同志であり、仲間でもある。スペクティターも全て含めて仲間なのである。

 プライベータでも世界選手権へも参戦できるという素晴らしさ。
古い競技車両でもラリーは充分に楽しめるという事実。
『Rally』という『同志が再び集結する』という深い意味を持つスポーツ。
これからも、関われる限りの力を持って、ラリーに関わりたい。と心の中でそう呟いた。
そして、その素晴らしさを私自身も体感していくと共に、ひとりでも多くの人々に伝えていくことが出来れば・・・と改めて、思った。

 最後に、私の願いを快く受け止めてくれた家族も会場に駆けつけてくれ、家族と友人とで大応援団を形成してくれたことは、私の記憶の中にいつまでも存在し続けることと思う。
貴重な経験をさせていただいた、家族や友人、仲間、そして、亡き兄とその家族、Rally Japan 2008に関わる全ての方々に心より感謝するものである。