群馬のロング・ステージが育てた世界チャンピオン 
新井 敏弘 


2005年PCWRCワールドチャンピオンに正式認定 

 





 2005年のFIA表彰式が、12月9日夜、モナコ・スポーツ・クラブ」で開催され、日本人初のワールド・チャンピオンになった新井敏弘(PCWRCワールドチャンピオン)は、各国モータースポーツ関係者約1,000人とともに出席した。
正装で出席する表彰式には、紋付袴で参加した新井敏弘に注目が集まった。


表彰式に先立ち、STIの桂田社長とともにペター・ソルベルグの自宅マンションに招かれた。ソルベルグ夫妻、コ・ドライバーのフィル・ミルズ夫妻と合流した新井と桂田社長は、この一年の労を互いにねぎらい合い、来シーズンのさらなる躍進を期して乾杯。そろって表彰式に出かけて行った。
 「ワールドチャンピオンは、僕の他にはローブ、エレナ、そしてアロンソの3人しかいなかったので、受賞の重みを感じましたね。」と、最後の記念撮影でも最前列に立った。
「日本の伝統衣装で出席したので、改めて日本人代表だという気持ちになりました。皆さん、応援をありがとうございました。来年も是非この席に出させてもらいたいものです」と語った。






毎日走りこんだ学生時代

 新井はここまで来るのに多くの時間を費やした。
“新群スペ三羽烏”と呼ばれた新井敏弘は、今年2月に行なわれたスウェーデン・ラリーで初日からトップに立ち完全優勝を果たし、「残りは得意なイベントが多いのでチャンピオンを狙います。」と言う言葉通り、充実した走りを見せてくれた。。

 新井は群馬県前橋市の出身。
大学1年で免許取った時には、既にラリーという事が頭にあった。
高校時代、車好きの友人がラリー記事が出ていた雑誌を持っていた。
 大学に入り念願の車を手にしてからは、時間のある限り走りこんだ。昼間でも学校が休校になると山に入っていた。その後、得意としていた赤城の鍋割林道は50ccのバイクで走り、夜は車で毎日のように走リ回っていた。
この頃、ガソリン代だけで月に10万円を超えていた。
手に入るお金の大半がガソリン代に消え、車自体の装備にはなかなか手が回らなかった。板金以外は、見よう見まねで自分の手での作業だった。
多くの選手がラリー界から去る事になった原因の51規制は、新井にとっては逆に車の改造ができないという事がお金を掛けなくて済むという利点にもなった。

 新井の走った所はほとんどが舗装路だった。これには幾つかの理由があった。
この頃、既に問題になっていた試走や練習による道がほれてしまう問題。もう一つは頻繁にタイヤを買う事が出来なかったので、タイヤの山が少なくなっても走れるからと言う理由だった。
2年目からの大学は、桐生に通学していたので、この方面の林道はよく走った。
群馬のラリーの中心は榛名山周辺で行われていたために、赤城山より東側は殆ど走っていなかったので道は綺麗だった。

 新井は同じ道を行ったりきたりしてガンガン走るより、長い距離を9割くらいの力で走る方法をとっていた。道を荒らすのも嫌だった。
同じ所を繰り返し走るのは、基本を覚えるという事には良いかもしれないが、道を覚えてしまえば目をつぶっていても走れるようになってしまう。 ドライバーとして道に対しての適応能力をつけるのには長い距離を走ったほうが良い。と言う考えから30kmの道を1回、数日してからまた走ると言う方法をとっていた。
これは、見た目で判断してコーナーを抜ける練習と路面の変化に対して瞬時の状況判断と対応能力の速さ、そして車をコントロールするという事に必要な練習と思っていた。
しかし、この頃はまだ海外を走るためという大きな目標はなかった。

いきなりトップクラスに仲間入り
 51規制後多くの有力選手が群馬のラリー界から去ったとはいえ、競技への参加は相変わらず難しかった。県内有力クラブのアルパイン群馬に所属した新井も、このコネを使って参加を試みるが、出られたのは年に数戦だけ、そんな中、カム・ツアーにAE86で初参加した。そこには石田雅之、吉沢恒男が参加していて、自分のレベルを比較する事が出来る絶好の腕試しだった。結果は吉沢が優勝、新井は5位に入賞した。タイム的にもこの両選手について行けるものだっただけに自信がついた。

やまびこラリーにも出る事が出来た。桜井幸彦・大島治夫・石田雅之、石田正史などの全日本選手も多く参加していたのは新井にとって良い刺激だったし、武者修行にもなった。
 当時の関係者は、この頃の新井を「いきなり速い奴が出てきたという印象だった。そしてナビの坂木と合わせて緊張感のない二人。ずんぐりした体型の二人は短パンとTシャツで馬鹿ばっかりやってた!」と語っていたくらい、怖いもの知らずだった。
参戦2戦目のくれさかラリーでは、吉沢恒雄に次いでAE86で2位に入リ、既に頭角を表し、速さではトップ・ドライバーと肩を並べる選手になっていた。
 この頃の群馬と言えば桜井・大島あたりがトップ・クラスにいて、新井にとっては雲の上の人だった。しかし、このラリーの鍋割林道で桜井幸彦に勝って自分自身驚いた。桜井はファミリア、新井は86だった。しかし、ここでは道を熟知している方が速かった。

 新井は地区戦にステップ・アップした。関東から東北、青森までの遠征で、新群スペ3羽ガラスに加え、青森など広い範囲のライバルと戦い、3年目の23歳でB/C地区のチャンピオンになった。全日本選手権のモントレーBクラスでも勝って、24歳でいすゞに移籍しここで全日本選手権を2年間走った。新井は、その後のドライビング・テクニックのレベルを上げるのに大きな経験をする事になった。
それは、チームいすゞのエース・ドライバーだった北海道の坂明彦に左足ブレーキを教わった事だった。FF車で滑りやすい道、雪道、関西ラリーのような砂利の乗ったターマック路で速く走るには絶対必要なテクニックで、これを氷上で教わり、すぐに身につけてしまった。
その後、新井は全日本選手権でインプレッサに乗っても左足ブレーキを多用していた。
その後、パックアールのサポートを受け全日本戦でCクラスに参戦する事になり、2年目にシリーズ3位、2位、2位とレベルアップし、キャロッセに移ってから念願のチャンピオンに輝いた。

アグレッシブな走りに特殊な能力
 新井のドライビングはアグレッシブと言われている。海外でトップ・スピードの高いコースを長い距離走るようになって、さらに磨きがかかった。しかし、このアグレッシブな走りはトップ・ドライバーの仲間入りしてから身につけたものではなく、赤城山や榛名山、桐生方面の林道を走っている頃から車を振り回して走りながら身につけたものだった。
新井は、アクセルを開けている時間が長ければ長い程、車は速く走る事が出来る。だから、常にコーナーには速い速度で入り、どうすれば速くアクセルを開ける事が出来るかを考えていた。コーナーを信じて飛び込み、ブレーキングで車の向きを変えアクセルを踏む。
向きが強く変われば変わるほどアクセルを強く踏まないと車は出て行かない。車がアンダーならさらに強く向きを変えていた。新井の頭の中には、車をどう振り回すかしか考えていなかった。

勿論タイヤの磨耗がひどかったが、この時に車をコントロールする事を覚えた。
今では、この経験が生き、WRCのコースでもうんと滑りやすい所や難しいクニャクニャした所では、ワークスのドライバーを含めてみても新井が一番うまいとジャーナリストに言われている。
 新井は何でもいいからアクセルを踏んでいればいいという走りが、海外で走る事を経験して、ただ単にコーナー速度を上げるのではなく、ブレーキングを短くし、速くコーナーを抜けるラインを探すという走り方(考え方)に変化してきた。

 新井は国内を走っている時からリタイヤが少ないドライバーだった。
これは現在海外を走っていてもいえる。一見するとリスクの多いと思われるアグレッシブな走りでも計算され、車をコントロールしているという証拠でもある。
さらにもう一つ、信じられないような特殊な能力を備えている。
競技中に今日は危ないという事を直感的に感じる事がある。
また、コーナーに侵入しようとした時に、このコーナーは危険と感じ押さえ気味に進入すると、コーナーの先にリタイヤした車が止まっていたりする。
何がその根拠になっているか本人も理解しがたいのだが、まさに動物的な能力が備わっているのだろう。
以前STIの桂田社長がトミ・マキネンは動物的な何かを持っているドライバーだと、言うことを雑談の折りに言っていたのを思い出した。

 新井は、全日本戦で勝っても「ここで良い」と感じた事がなかった。この様な気持ちがあったからこそ今の海外があるのだろう。
赤城山の鍋割林道と桐生の長い林道で覚えたテクニックは、舞台が世界になってもさらに進化し続けている。


2000年アクロポリス

2002年オーストラリア

2003年アルゼンチン

2004年メキシコ